表現の自由について考える(☆)
借金エンジニアです。
今日は「表現の自由」について考えます。
あいちトリエンナーレ2019の中の「表現の不自由展・その後」という企画が脅迫を受けて中止されたことで、「表現の自由」が脅かされたという論調が多いですが、私はそうは思わなかったので、何を思ったか、書きたいと思います。
表現の自由とは
そもそも「表現の自由」とは何なのか?ウィキペディアから抜粋します。
表現の自由(ひょうげんのじゆう、英: freedom of speech)とは、すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利。外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表する自由。個人におけるそうした自由だけでなく、報道・出版・放送・映画の(組織による)自由などを含む。
日本国憲法第21条
第1項
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第2項
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
日本国憲法の下でも、表現行為が他者とのかかわりを前提としたものである以上、表現の自由には他人の利益や権利との関係で一定の内在的な制約が存在する。内在的制約とは、第一には人権の行使は他人の生命や健康を害するような態様や方法によるものでないこと、第二には人権の行使は他人の人間としての尊厳を傷つけるものであってはならないことを意味する。
表現の自由の限界 表現の自由もまた、他の基本的人権同様にその濫用によって他者の人権を侵害してはならないと解されている。
重要そうな箇所を抜粋しました。
何を表現するのも自由で、検閲してはいけないが、他人の人権を侵したり、傷つけてはいけない。
こんなところでしょうか?
あいちトリエンナーレ2019で「表現の自由」は脅かされたかどうか
冒頭でも書きましたが、あいちトリエンナーレ2019の中の「表現の不自由展・その後」という企画が脅迫を受けて中止になりました。
この事で「表現の自由」が脅かされたかどうかを考えます。
私の考えを先に書くと、「表現の自由」は脅かされていない、です。
なぜ、そう思うか。
そもそも、今回展示されたものが作られ、その行為そのものが制限を受けていないこと自体が「表現の自由」が保証されている、ということだと思うからです。
企画の中止で撤去された作品の製作者が所有している会場で、個展を開き、そこで展示することを強制的に止められたのなら、それは「表現の自由」が侵されたことになると思います。
税金が投入され、自治体も運営者側に入っている展示会で展示することを止めた、これは「表現の自由」が侵されたことにはならないと思います。
一度は展示をすると決めたことを、脅迫を受けて取りやめたことは、脅迫に屈したことになるので、あまり良いこととは思えませんが、先日の京アニの事件も記憶に新しい事もあり、安全を確保するためには仕方ない判断だったと思います。
今回の件で最も悪いのは脅迫をした人、これは間違いないと思いますが、次に悪いのは展示することを決めた運営側だと思います。
主催者が展示する・しない、展示にふさわしくないと決めること自体は「表現の不自由」ではないので、今回の企画自体が間違っています。
今回唯一侵されたのは、「あいちトリエンナーレ実行委員会の表現の自由」だと思います。
ただ、税金が投入されているため、県民、国民も主催者の一人だと考えられるので、多くの人から批判を浴びれば、中止も止むを得ないと思います。
8月6日は「太陽熱発電の日」
8月6日は「太陽熱発電の日」とカーナビが教えてくれました。
「太陽光」ではなく「太陽熱」です。
1981年のこの日、香川県三豊郡仁尾町の電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電が行われた。
ということで、「太陽熱発電の日」も日付に意味のある記念日でした。
記念日は日付に意味があったほうが良いと思いますが、語呂合わせのほうが覚えやすいですね。
8月6日が広島に原爆が落とされた日でもあるので、余計に忘れられそうです。
おわりに
昨日も今日も明日も、日本では表現の自由は保証されている。
そう思います。
この暑さ、太陽熱発電で緩和できませんかね?
以上です。
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